東京国際映画祭の作品選定ディレクター・矢田部吉彦さん、PFFぴあフィルムフェスティバルのディレクター・荒木啓子さん、TAMA CINEMA FORUMのコーディネーター・渡辺和則さん。それぞれ個性あふれる映画祭を牽引する3人が、日映シネマガだけに語った映画祭の知られざるエピソードをお届けする「映画祭放談~映画祭の深イイ話~」。第1回は、それぞれの映画祭を紹介しつつ、3人が映画祭に携わった経緯を語っていただきました。

第1回

「映画祭への道~私は如何にして映画祭に関わるようになったか~」

放談風景1

――まずそれぞれの映画祭の始まり、そしてお三方がどう携わって来られたのかをお聞きします。3つでいちばん長い歴史を有する映画祭はPFF(ぴあフィルムフェスティバル)ですよね?

荒木:はい。PFFは1977年スタートです。私自身は1990年に少しお手伝いをしたのち、2年後いきなりディレクターになりました(笑)。それ以前は映画制作に関わっていたのですが、一緒に仕事をしていた方から「映画祭のスタッフに向いているのでは?」と言われその気に。当時、映画祭はPFFか東京国際しかなくて、マイノリティー好きで孤高な人のために働きたい思いから自主映画中心のPFFに。石井聰亙(岳龍)さんに衝撃を受けていたことも大きかったと思います。

矢田部:東京国際映画祭は1985年からですね。当時の映画業界が日本にも映画祭が必要だろうということで、映連(日本映画製作者連盟)を中心に、メジャー各社の協力によってスタートしたんです。なかには映画会社からの出向の方やフリーランスの人がいますが、僕はアルバイト的な短期業務から始まり、だんだん契約が長くなって、いつしか毎年更新されてどっぷりハマってしまった珍しいケースです(笑)。

渡辺:私は1990年ごろ、まさに映画祭立ち会げから参加しました。もともと多摩ニュータウンは1971年に1期目の住民が入居したのですが、他所から来た人たちと以前から住んでいる人たちの間で当時ギスギスしていまして。そこで1973年、当時の多摩市長が新旧住民の交流の場として公民館を造り、そこで映画の上映や演劇の上演を定期的に行うようにしたんです。そしていまから25年前、多摩市市制20周年に役所の各課がいろんな行事を催していいということになり「公民館で映画祭をやろう」という事になったんです。

――TAMA CINEMA FORUMの形態である“市民映画祭”というのはどういうものなんですか。

渡辺:端的に“みんな素人”ということです。映画に関わったプロの人がいない。みんな映画が好きだから映画祭をやっているという。ただ当時、予算だけはとったんですけど、素人だから何から手を付けていいのか全くわからない。映画好きの市民に集まってもらっても、結局誰も何もわからなくて。

――映画が好きだから映画祭をやろう。……そうスムーズにいく仕事ではなかったと。

矢田部:そういう意味では、僕が映画祭に関わろうと思ったきっかけも映画、特に映画祭が大好きだったからです。もっと具体的には、以前ロンドンに住んでいてロンドン映画祭のディレクターが「私の選んだ作品を観てください」と観客に紹介する姿を見たことですね。とても憧れました。これほど素晴らしく、これほど楽しい仕事がこの世にあるだろうかと(笑)。

――なるほど。荒木さんはどうでしたか?

放談風景2

荒木:90年のPFFは、たくさんの映画祭受注を抱えていました。その一つにイギリス大使館からの映画祭企画運営の依頼があり、私はイギリス、特にモンティ・パイソンがめちゃくちゃ好きだったので二つ返事で「やります!」と。その後、カナダ映画祭やオランダ映画祭などの海外映画祭を手伝っていきました。その頃のPFFは海外部門、オフシアター部門など、各セクションごとにディレクターがいたのですが、その人たちが辞めるときになぜか主催の「ぴあ」から「全部を統合したディレクターになってくれないか」と打診され、現在のようなPFFディレクターになったというわけです。

矢田部:僕は、もともとフランス映画祭に関わっていたんです。映画祭はめちゃくちゃ大変ですけど、年5日間~10日間のイベントなのに一年中仕事があるほうが不思議なんですよ。年間3つくらいの映画祭を渡り歩くスタッフもいますが、僕も当初はフランスを春に、東京国際を秋にと二股をかけていました。そこから東京国際1本になっていったんです。

――掛け持ちというのもすごいですね…。そして渡辺さん、「何から手を付けたら良いのか…」というTAMA CINEMA FORUMは、どのように進んでいったんですか?

渡辺:どうしたらよいのか戸惑っていたとき、市民の一人が国際的なデザイナーの矢萩喜従郎さんを存じ上げていて、話を聞きに伺ったら「イベントはまずコンセプトを作りなさい」と言われまして。その流れで、まずは矢萩さんに映画祭のシンボルマークとしてのロゴマークを作って頂きました。もはや映画祭のヴィジョンがどうのこうのといった次元じゃなく、とにかく出来上がったロゴマークを前に「やらなきゃ」というので頭がいっぱいでした。そうして何とか1991年に第1回をスタートさせたんです。

第2回は5/15(金)にUP予定! テーマは「映画祭もつらいよ~“それを言っちゃあお仕舞いよ”をギリギリまで言っちゃおう~(仮)」。どんな話が飛び出すのか!? こうご期待!

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■プロフィール■

yatabe

矢田部吉彦

■プロフィール

1966年フランス生まれ。銀行勤務、英仏駐在・留学を経て映画業界へ転職。映画配給・宣伝を手がける一方、ドキュメンタリー映画のプロデュースなどに携る。2002年から東京国際映画祭にスタッフとして参加。2004年から現在まで上映作品選定を担当している。2007年よりコンペティションのディレクターに就任。
(「東京国際映画祭」公式サイトはコチラ

araki

荒木啓子

■プロフィール

映像製作・宣伝などの仕事の後PFFに関わり「UK90ブリティッシュフィルムフェスティバル」から各国映画祭運営に参加。東南アジア映画祭(国際交流基金アセアン文化センター主催)のヤングシネマ部門プログラミングディレクターなどを経て、1992年にPFF総合ディレクターに就任。日本のインディペンデント映画を国内外に紹介することに力点を置く活動を続けている。
(「PFFぴあフィルムフェスティバル」公式サイトはコチラ

watanabe

渡辺和則

■プロフィール

1979年より東京都多摩市役所に勤務。公務に並行して1990年より市の公共施設を用いて市民主体の映画イベント”TAMA映画フォーラム”(現在のTAMA CINEMA FORUM)の立ち上げに尽力。市民と市役所双方を結ぶ存在として、同実行委員会コーディネーターとして活動している。
(「TAMA CINEMA FORUM」公式サイトはコチラ